稲付川2 ・低地地区をゆく Day:2012.07.09 07:38 Cat:河川 前回の稲付川1・河口付近より続きます。下記地図で表した場所のうち目印2~7までが登場します。今回は暗渠部始点近くより東十条・赤羽南境界付近まで参ります。より大きな地図で 稲付川 を表示 さて、道路中心の合わない交差点…行く先の路面を見ると舗装の状態が左右で異なっている。それとともに見比べたいのがここまでの歩道とここから先の路面ガードレールがある歩道の縁石のラインを行く先の交差点方向へと伸ばしてみると…見事に自然なラインをたどっていることがわかる。このことから流路は歩道直下ならびにこの先の道路の左側にあると推定することができる。路面は狭くなりながら屈曲する。しかし道は狭くなれど舗装の左側は殆ど幅が変わらないことがわかる。川幅はそのままである模様。 きた道を振り返っての撮影。川は工場の隙間を縫うように流れている。元は川だった暗渠にはよくある裏手感が出ている。裏手感の漂う箇所を抜けるとすぐに公団住宅に挟まれた比較的広いスペースへと出る。しかしここももとより広かったのかは疑問である。特に建物が新しいので区画整理を行なっているのでは…(下流方向へ振り返っての撮影)この横断歩道のすぐ先の上流方向…まるで川の存在など忘れ去られたかのような路面が続いている。ここの景色だけを見ても流路跡とはにわかには信じられない。舗装が最近も一新されており、一層判別がしづらい区間である。この区間の先、下写真のすぐ背後で一旦流路上の道は途切れる。道の途切れた箇所から下流を見る。何の変哲も無い普通の道路だが、緩やかに下り勾配になっている。川だった時代でも流速はさほど速くはなかったのではなかろうか。暗渠上の道が途切れるこの区間…幼稚園並びに小学校の間を流れるが生憎児童が多数おりとても撮影できる状況でなかったため写真については省略したい。この幼稚園・小学校の間を流れる区間ではあたかも暗渠などないかのように建物の間隔が非常に狭くなっている。幼稚園脇を過ぎたところで再び川は道の下へと来る。歩道橋が写っているがまさにこの真下が流路である。あろうことか流路直上に歩道橋が作られている。これが歩道橋直下部分である。縁石並びに路面をよく見るとわかるが流路跡だけ一段高くなっている。歩道橋の先は、いかにもな裏手感の漂う路地になっている。ここでやっと一つ、この川の存在を明確に今へと伝えるものが見つかる。 西 中 橋 跡 西中橋は昭和33年12月北耕地川に架けられた橋です。 平成3年3月に埋立が完了し橋としての役割を終え撤去されました。 ここに西中橋を偲んで碑を建立いたします。 平成3年3月 東京都北区 (原文ママ)これを見て、川と橋、それぞれに宿る人々の生活の痕跡を思い胸が熱くなるのを感じるとともに、少々の疑問も浮かんでくる。・埋立とあるが暗渠化せず新たに下水管を敷設した上で全て埋めたのか。その場合河口付近の開渠部の存在するのはなぜか。・なぜ西中橋のみ碑があるのか。たまたま目に付きやすいからなのか何か要望があってのことなのか。・寧ろ未だ現役の開渠部間際の北町橋には銘板すらない状態である。他の橋では名が明記されていたのか。と今となってはわからない事情を探ってみたくなる。さて、この通りもともとは西中橋があった場所である。今となっては橋などなく本来ならそれとわからなくても不思議ではないが…現在でも道が橋になっていた部分の形をそのまま残すように流路跡だけ一段盛り上がっている。流路はこの先工場・倉庫敷地内を通過しているために直接追うことはできない。ただし追えずともここの流路の跡が現在でも重要な役割を担っている。ここを境に南側が東十条・北側が赤羽南になっている。敷地を迂回して抜け、もう一本西の道路の様子がこちら画像中央付近でフェンスが不自然に一段上に架けられているのが見える。これはここに元あった橋の欄干を使っているのではないか…近づいてみたものの実態は不明確。またこの時偶然ながら撮っていたものの編集するこの時点まですっかり忘れていたこの写真…流路があったであろう場所に道路工事でよく用いられるアスファルトへの切り込みが入れてあった。これはこの場に何らかの地下構造物があることを示している。下水道管かあるいは川を囲うボックスカルバートか…残念ながら推測でしか伺うことができない。[この先川は東北本線・赤羽線をくぐりいよいよ佳境とも言える区間へと差し掛かります。]以下、第3編へと続きます。 URL Comment(0)Trackback(0)Edit